
はじめに~誰が地域を支えてきたのか?
自治会や町内会の名前は知っているけれど、よくわからない
多くの人が「自治会」「町内会」という言葉を一度は聞いたことがあると思います。引っ越しの際に入会を勧められたり、回覧板が回ってきたり、地域のお祭りや清掃活動の案内を受け取ったりと、生活のなかで何かしら関わる機会がある組織です。
しかし、「自治会や町内会がどんな歴史を持ち、何をしているのか」と問われると、具体的に答えられる人は意外に少ないのではないでしょうか。とくに若い世代のなかには、「自治会や町内会は自由参加のはずなのに、なぜ会費を払わされるのか」「自治会や町内会に入ると何かメリットがあるのか」と戸惑いを覚える人も増えています。
自由参加なのに、なぜ地域に必要とされているのか?
確かに自治会・町内会は「任意の団体」です。法的な加入義務もなく、辞めることも可能です。それにもかかわらず、ゴミステーションの管理、防犯灯の設置、地域行事や防災訓練といった地域生活のインフラに深く関わり続けてきました。
この不思議な立ち位置、公でも私でもない、けれど生活に密接に関係する存在が、自治会・町内会という組織の特徴であり、時に混乱や誤解を招く原因にもなっています。
歴史をひもとき、これからを考える
今回は自治会・町内会がなぜ生まれ、どのように変化してきたのか、その歴史的背景をたどりながら、現代社会におけるその意義と役割を改めて考えていきます。
今、少子高齢化や人口減少、都市化によって自治会・町内会のあり方が大きく揺らいでいます。かつて奇跡とも言えるほど長く続いてきたこの仕組みは、これからも必要とされるのか。それとも、新しい地域の形に移り変わっていくべきなのか。
私たちが暮らす「地域」は誰が支えてきたのか、そしてこれから誰が支えていくのか。そんな問いを共有する出発点として、まずはその歴史を見てみましょう。
明治〜戦前:行政の末端として整備された町内会
現在、私たちが目にする「町内会」や「自治会」は、地域の親睦団体でありながら、防災、防犯、清掃など多様な役割を担っています。その原型がどのようにして生まれたのかをたどると、明治から昭和初期にかけての歴史が浮かび上がってきます。
この時代、町内会は「地域住民の自主的な組織」として育まれたというよりも、むしろ行政の手足として、国家や自治体の意向に基づいて整備されていった経緯があります。以下では、三つの時期に分けて、その形成過程を見ていきます。
明治23年(1890年)、市制が施行されたばかりの横浜市で、町内会の前身とも言える「衛生組合」が組織されました。これは、開港都市として外国人との接触が多く、コレラや赤痢などの伝染病リスクが高かった横浜にとって、地域単位での衛生管理が急務だったからです。
当初の目的は、地域住民が協力して衛生状態を改善し、感染症の拡大を防ぐことでした。明治30年に「伝染病予防法」が制定されると、衛生組合は市町村の補助対象となり、活動の幅を広げるようになります。地域の消毒作業、井戸水の管理、さらには道路整備や清掃活動など、自治的な役割を果たすようになっていきました。
行政と住民が連携して地域を管理するこの形態は、後の町内会や自治会の基礎となるものであり、「地域による自助」の萌芽と言えるでしょう。
大正12年(1923年)の関東大震災は、東京・横浜を中心に甚大な被害をもたらしました。行政機能が麻痺し、警察や消防も人手が足りず、地域の治安や救援活動は市民自身の手に委ねられる状況となります。
このとき各地で自然発生的に立ち上がったのが「自警団」です。彼らは夜間の見回りや盗難防止、避難所の管理、炊き出しや物資配布などを担い、地域の安全と秩序を守る存在として活動しました。
震災後の復興に伴い、自警団はしだいに解散していきますが、その精神は「青年会」や「町内会」といった任意団体へと引き継がれていきます。住民自身が地域の課題を担う仕組みは、危機を契機に広がりを見せたのです。
昭和15年(1940年)、内務省は「部落会町内会等整備要綱」を訓令し、全国に町内会の整備を命じました。これは戦争遂行体制の強化を目的とした政策であり、町内会はもはや「任意の住民組織」ではなく、実質的に国家の下部組織としての位置づけを与えられたのです。
このとき導入されたのが、「隣組」制度です。10戸前後の家庭を1単位としたこの制度では、日常的な監視や物資配給、徴兵・防空訓練の連絡など、戦時体制を支えるための機能が細かく分担されました。
さらに1942年には、大政翼賛会の下部組織として町内会が位置づけられ、国策の末端を担う存在として動員されていきました。「住民自治」という名とは裏腹に、町内会は上意下達の管理システムの一環として整備されたのです。
こうした戦時体制への組み込みは、戦後にGHQから「非民主的」として解体命令を受けることにもつながっていきます。
戦後:民主化と再出発、そして「奇跡の持続」
戦後、日本社会は価値観と制度の大転換を経験しました。戦時中は国家の末端組織として動員されていた町内会も、その変化の渦に巻き込まれます。1947年にはGHQの占領政策によって町内会は表向きに解体されますが、混乱と困難のなかで、人々の暮らしを支える存在として、形を変えながらしぶとく生き残っていきます。
この時期の町内会・自治会は、「行政の道具」から「住民の手による自治」へとその性格を大きく変え、そして高度経済成長期を通じて地域生活に欠かせないインフラ的存在として根付いていくのです。
昭和22年(1947年)、GHQは「町内会・部落会の解散と活動の禁止」を命じるポツダム政令第15号を公布します。これは、戦時中の町内会が国民統制のための非民主的組織だったと判断されたためであり、形式上、日本全国の町内会は解体されました。
しかし、終戦直後の混乱期、食料や物資が不足し、治安も不安定ななか地域住民の助け合いは不可欠でした。配給物資の管理、防犯、防火、衛生管理など、地域で解決しなければならない課題は山積していたのです。
こうした現実を前に、住民は「町内会」という名前を避けつつ、「防犯協会」や「赤十字奉仕団」などと名を変えて実質的な町内会活動を継続します。そしてその後、「弘報委員会」という新たな組織が誕生し、地域の声を行政に届け、広報活動を担う役割を果たすようになります。
1952年、サンフランシスコ講和条約の発効と共に、ポツダム政令は失効。これを契機に、町内会は再び「任意団体」として活動を再開する道が開かれます。
昭和30年代に入ると、日本は高度経済成長期へと突入し、都市開発や人口流入が進むなか、地域社会の結束と秩序維持の必要性が増していきます。横浜市では、昭和31年(1956年)に「町内会を新たな市民組織として育成する」方針が打ち出され、行政と町内会の協力体制が強化されていきました。
この時期を象徴する事例のひとつが、「広報よこはま」の全戸配布です。市の広報誌を各家庭に届けるという業務を町内会が引き受けたことで、町内会は「住民と行政をつなぐ基礎組織」として、実質的に不可欠な存在となりました。
戦後から現在に至るまで、自治会・町内会は、実に多くの地域業務を担ってきました。街灯や防犯灯の設置・維持、防災訓練や避難所の管理、地域運動会や夏祭りといった行事の開催、さらにはゴミ集積所の清掃や管理まで──どれも、行政が直接担うには手が届きにくい、しかし住民の暮らしには欠かせない活動です。
特筆すべきは、これらの活動の多くが、無償の労働と善意によって成り立ってきたという点です。町内会費は集められるものの、それだけではカバーしきれない作業量や運営費がかかることも少なくありません。それでも、地域のためにと自発的に汗をかき続けてきた住民がいたからこそ、この「奇跡」は持続されてきたのです。
現代:限界を迎える「奇跡」
かつて地域に根差した活動を支え、多くの行政協力を無償で引き受けてきた自治会・町内会。しかしその奇跡とも呼べる仕組みは、今、確実に限界に直面しています。
加入率の低下、役員の高齢化、行政からの過剰な期待。かつて当たり前だったことが、もはや当たり前に続けられない時代に突入しているのです。では何が起きているのか。それぞれの問題をひとつずつ見ていきます。
かつては加入率80〜90%が当たり前だった自治会・町内会。しかし近年では、組織率が50%を下回る地域も珍しくなくなりました。とくに都市部や新興住宅地では、転入者が自治会に入らないまま暮らすケースが増加しています。
背景には、「自治会に入るメリットが感じられない」という声や、仕事や子育てに忙しい若年層の時間的余裕のなさがあります。さらに言えば、「何かを頼まれるのが面倒」「自分の生活に直接関係ない」といった心理的距離も、加入を妨げています。
その結果、役員のなり手が減り、高齢の住民が毎年順番で役を回されるような状態が続いています。「自分の代で終わりにしたい」と考える人も増えており、活動の持続可能性は極めて厳しい状況にあります。
阪神・淡路大震災や東日本大震災の教訓から、自治体は地域における防災力の強化を求められるようになりました。そこで期待されたのが、すでに地域に根づいた組織である自治会・町内会です。
実際、多くの自治体では「災害時要援護者リスト」の作成や、「誰が誰を見に行くのか」といった安否確認体制の整備を自治会に依頼しています。しかし、これは本来、行政が担うべき責任ある業務であり、住民の無償の善意に頼るには重すぎる課題です。
しかも、その一方で自治会に対する支援や人材・資金面でのバックアップは十分とは言えません。「お願いはされるが、助けてもらえない」という矛盾が、自治会の疲弊を加速させています。
2005年の最高裁判決は、「自治会は任意団体であり、会員はいつでも自由に退会できる」という明確な判断を示しました。これにより「会費を払わなくてもよい」「加入しなくても問題ない」という解釈が一気に広まりました。
もちろん、任意団体である以上、それは正しい解釈です。しかし、問題はその自由の陰で、ゴミ集積所の管理、防災訓練、地域イベントの運営など、地域の公共的機能が誰かの無償の労働によって支えられているという現実が忘れられてしまっている点です。
自由参加であるがゆえに、強制はできない。けれど、参加者がいなければ地域が回らない。このねじれた構造が、今の自治会・町内会の最大の課題と言えるでしょう。
歴史を振り返る視点:なぜ「自治会」が成り立ったのか?
自治会・町内会は、法的な根拠も義務もない「任意団体」でありながら、なぜこれほど長いあいだ、地域の中心的存在として機能してきたのでしょうか。
その問いに答えるには、自治会という仕組みが形成された歴史的背景、特に同時代の社会構造や階層との関係性に目を向ける必要があります。ここでは、労働組合との比較、そして戦後における自発的な活動の意味を手がかりに、「なぜ成り立ち、なぜ続いてきたのか」を考察します。
自治会と労働組合との比較から見えること
20世紀初頭、日本の都市化が急速に進むなかで、農村から都市へと移り住んだ人々は、大きく二つの階層に分かれていきました。ひとつは工場などに雇われる「労働者」、もうひとつは自ら商売を営む「自営業者」です。
前者は労働組合という組織を通じて、自らの労働条件の改善や権利拡大を求める運動を展開していきました。一方、後者である都市の自営業者層は、労働運動のような大きなうねりに加わることなく、自らの経済的安定と社会的地位の確保のために、地域に根ざした横のつながりを求めていきました。
これが、町会・自治会の前身とも言える「町の会」の源流です。そこでは商店主や職人が、近隣とのつながりを活かして防犯・清掃・衛生といった共通の課題に取り組むことで、自らの商売を守り、地域での信頼を築いていきました。
言い換えれば、自治会とは「都市下層の自営業者による生き残り戦略」でもあったのです。
自治会や町内会が戦後も続いた理由
戦後、GHQによって町内会は一時解体されましたが、1950年代以降に再び地域組織として復活を遂げます。なぜこのような復活が可能だったのでしょうか。
それは、自治会の中心にいた自営業者たちにとって、自治会を担うこと自体が「社会的地位の証」であり、行政とのパイプを持ち、地域の影響力を確保する手段だったからです。町内会の会長や役員を務めることで、地域の名士として認知され、商売にも好影響があった時代背景がありました。
さらに、自治会の多くの活動は「報酬のない公共労働」であるにもかかわらず、地域のために自ら動くという公共性をもって、他のどの民間団体よりも広く住民の信頼を得てきました。
これこそが、自発性と公共性の奇跡の共存であり、報酬がなくとも担い手が絶えなかった理由のひとつです。
しかし、時代が変わり、そうした地域的つながりが希薄になるにつれ、「担うことの名誉」や「社会的上昇の期待」が見込めなくなり、奇跡の持続は今、限界を迎えつつあります。
これからの自治会・町内会
地域住民の善意と自発性に支えられてきた自治会・町内会。しかし、その奇跡的な継続も限界を迎えつつある今、次に考えなければならないのは、「これからどうするか」です。
すべてを残そうとすれば、すべてを失う。だからこそ今、自治会・町内会は「これまで」と「これから」の間に立ち、地域に合った姿へと再構築されていく必要があります。
二つの方向性~維持型と縮小型、どちらの道を選ぶのか
今、自治会・町内会のあり方は、大きく二つの方向に分かれつつあります。
ひとつは【維持型】です。これは、行政が積極的に支援を行いながら、これまで担ってきた機能をできる限り維持する道です。たとえば、地域コーディネーターの配置、外部団体との連携、補助金制度の充実などを通じて、役員の負担を軽減しつつ活動を継続させる方法です。
もうひとつは【縮小型】。従来の行政協力や行事開催を必要最小限にとどめ、主に加入率を維持することに力点を置く道です。この道では、日常的な協力は難しい代わりに、災害時や緊急時に地域全体の合意形成が可能となる話し合いの場としての役割を重視します。
どちらを選ぶかは地域次第。ただし、どちらにしてもこれまで通りの継続はもはや現実的ではありません。
地域によって「最適解」は違う~一律の制度ではなく、多様な選択肢を
自治会・町内会は、地域によって事情も成り立ちも異なります。高齢者が中心の地域と子育て世代が多い地域、新興住宅地と伝統的集落では、抱える課題も活動内容もまったく異なります。
だからこそ、制度も運営方針も一律ではなくていいのです。
ある地域では、親睦を中心にした交流の場として細く長く続けるのがよいかもしれません。別の地域では、防災や安否確認といった非常時の連絡網として機能することに特化する方が合っているかもしれません。
共通して言えるのは、「地域の人が気軽に話せる」「必要なときに声をかけ合える」ようなゆるやかなつながりが保たれていれば、それだけで十分に価値があるということです。
法制化すべきか?義務化よりも支援と柔軟な枠組みを
「自治会や町内会への加入を義務にすべきではないか」という声が一部であがったこともあります。しかし、自治会はあくまでも任意の団体であり、その自主性がなければ成り立たない組織です。強制加入のような制度は、現行の法体系や国民感情とも相容れないものでしょう。
それよりも、現実的に検討すべきは、「認可地縁団体制度」の活用です。これは、自治会が地域の法人格を得て、財産管理や契約を合法的に行えるようにする制度で、すでに多くの自治体で導入が進められています。
加えて、行政が行うべきなのは、情報提供、財政的支援、人材支援の強化です。デジタル化支援や外部団体との連携、負担軽減のためのアドバイザー制度など、柔軟で持続可能な仕組みを導入することが、今後の自治会・町内会には必要不可欠です。
自治の未来は「自由と責任」のバランスの上に
戦前の行政装置から、「民の公」へ
自治会・町内会は、かつて戦時体制の中で行政の末端組織として整備され、国策の一翼を担った過去を持ちます。しかし、戦後はその性格を大きく転換し、「住民が自発的に地域を支える組織」として再出発を果たしました。
つまり現在の自治会・町内会は、行政の道具ではなく、「地域の公共を民が担う」仕組みです。これは、単なる奉仕やボランティアを超えた、地域における新しい公共の形といえるでしょう。
すべてを続ける時代から、「選び、残す」時代へ
かつては地域行事、防犯、防災、清掃、行政広報など、すべてを自治会が担うのが当然でした。しかし、少子高齢化と都市化が進む現代において、それらすべてを続けていくのは現実的ではありません。
これから必要なのは、「何を残し、何を手放すか」を地域ごとに見極める視点です。親睦の場は残したい、防災は行政と分担したい、行事は簡素化したい。そうした選択を積み重ねて、地域にふさわしい自治の形をつくっていくことが求められています。
デジタルと多様な主体との連携で「次の形」へ
そして、これからの自治会・町内会には、新たな連携の形が不可欠です。たとえば、LINEやメール配信を活用した回覧板の電子化、高齢者や子育て世代の参加を促すデジタルツールの導入など、テクノロジーの力をどう使いこなすかが大きな鍵となります。
また、地域にはNPOやボランティア団体、町づくり協議会、大学、企業など多様な主体が存在します。これらと柔軟に連携し、役割を分担することで、自治会がすべてを背負い込まずに済む体制を築くことができるはずです。
「自由」と「責任」を支える、新しい自治のかたち
自治会・町内会は、加入も参加も自由であることを原則としながら、地域の責任をどう果たすかを模索し続けてきた存在です。これからの自治のかたちは、その自由と責任のバランスをいかに取るかにかかっています。
「やらされる自治」ではなく、「参加したくなる自治」へ。過去の延長ではない、次の地域のかたちを、住民自身がともに描いていく。そのプロセスこそが、これからの地域社会を支える真の力になるのではないでしょうか。
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